相続・終活のよくある失敗パターンあるあるシリーズです。 これはフィクションですが、現実に十分起こりうるシチュエーションとオチです。ご自身や、身の回りのどなたかの状況と重ねながら読んでみてください。
【主人公の状況】
夫婦:あり(二人暮らし)
子供:2人(いずれも遠方在住)
年齢:夫78歳・妻75歳
終活状況:夫に軽度の認知症の兆候あり、妻は足腰が弱い。「いざとなれば銀行で何とかなる」と考え、特に備えはしていない
Sさん夫婦(夫78歳・妻75歳)は、地方の住宅街で長年二人暮らしを続けてきました。2人の子供はそれぞれ都会で家庭を持ち、帰省するのは盆と正月くらい。電話では「元気にしてる?」と声を交わすものの、日々の暮らしぶりまでは伝わりません。
夫婦の役割分担は、自然と決まっていました。買い物や車の運転、お金の管理は夫、料理や家事は妻。妻はここ数年で足腰が弱り、長い距離を歩くのがつらくなっていたため、外回りやお金のことはもっぱら夫が担っていたのです。「お父さんが元気なうちは大丈夫」。妻はそう思っていました。
ところが、その夫に少しずつ変化が現れます。
最初は、買い物の品を間違えるようになったことでした。「醤油を買ってきて」と頼んだのに、同じソースを何本も買ってくる。冷蔵庫には封を開けていない調味料が並び始めました。次に気になったのは、買い物の帰りが遅くなることです。いつもなら30分の道のりに、1時間、2時間とかかるようになります。
それでも妻は、誰にも相談しませんでした。以前、テレビで「認知症でも銀行でお金を下ろせる新しい仕組みができた」というニュースを見た記憶があったからです。「お父さんが多少ぼけても、お金のことは銀行が何とかしてくれるはず」。妻は漠然と、そう安心していたのです。
決定的な出来事が起きたのは、ある冬の夕方でした。
夫が買い物に出たまま、日が暮れても帰ってきません。妻は足が不自由で探しに出ることもできず、ただ家で待つばかり。夜になっても戻らず、ついに震える手で警察に電話をかけました。夫が保護されたのは、自宅から数キロ離れた見知らぬ町を、買い物袋も持たずに歩いていたところでした。夫は自分がどこにいるのかも分からなくなっていたのです。
病院での診断は、妻が思っていたよりずっと進行した認知症でした。あの「買い間違い」も「帰りの遅さ」も、すべて病気のサインだったのです。
そしてここから、妻は現実の壁にぶつかります。
当面の生活費と夫の医療費が必要になり、妻は夫名義の口座からお金を下ろそうと銀行へ向かいました。「テレビで見た、あの仕組みで何とかなるはず」。ところが窓口で言われたのは、こうでした。「ご本人の意思確認ができないお口座は、原則として成年後見制度のご利用をお願いしております」。
例の「新指針」について尋ねると、行員はこう続けました。「たしかに、本人の医療費など、ご本人の利益が明らかな場合には、ご親族の引き出しに応じることがあります。ただし、それはあくまでやむを得ない場合の例外的な取扱いでして、診断書のご提出や、使い道がわかる資料、複数の行員による確認も必要です。当行が一律にお約束しているものではないんです」。
妻が思い描いていた「銀行が何とかしてくれる」という安心は、現実とはずいぶん違っていました。例外的に応じてもらえても、必要なたびに資料をそろえ、使い道を説明しなければなりません。まとまったお金を自由に動かすことはできず、結局は成年後見制度を検討するしかない——。
「もっと早く、お父さんが元気なうちに準備しておけば」。妻は、足元から崩れていく暮らしの中で、初めてそう悔やんだのです。
このケースに潜んでいた失敗の原因は、次のとおりです。
この事例で特に注目していただきたいのが、妻が安心の根拠にしていた「銀行の新指針」への誤解です。
2021年2月、全国銀行協会から「金融取引の代理等に関する考え方」という指針が公表されました。報道で「認知症でも家族が預金を下ろせるようになる」と紹介されたため、ご記憶の方も多いかもしれません。しかし、その中身は世間のイメージとはかなり異なります。
メモ:全国銀行協会の指針(2021年2月)のポイント
つまり、この指針は「家族なら自由に預金を動かせる」というものでは決してありません。あくまで本人のためにやむを得ない支出があるときの、例外的・限定的な救済策にすぎないのです。使えるのは医療費や施設費など使途が明らかなものに限られ、そのつど資料の提出や説明が求められます。妻が思い描いていた「お金のことは銀行が何とかしてくれる」という安心は、ここで大きく外れてしまったわけです。
注意点
認知症が進んで判断能力を失うと、残された道は家庭裁判所に申し立てる法定後見が中心になります。本人を守る大切な制度ですが、選任に時間がかかり、親族ではなく専門家が後見人に選ばれる場合もあり、継続的な報酬が発生することもあります。
なお、認知症の進行度や使える手続きはご本人の状態によって大きく異なり、銀行の対応もケースによるため、気になる段階で早めに専門家へ相談されることをおすすめします。
銀行の指針を「最後のセーフティネット」とあてにするのではなく、元気なうちに自分たちで備えておくことが何より重要です。判断能力の状態に応じて、次のように組み合わせるのが理想的です。
① 見守り契約 — まだ元気なうちから、専門家などが定期的に連絡・訪問し、異変を早期に発見する仕組みです。子供が遠方にいるご家庭ほど効果的で、「帰りが遅い」「買い間違いが増えた」といったサインを見逃さずに済みます。
② 財産管理委任契約 — 判断能力はあるものの、足腰が弱るなどして外出や手続きが難しくなったときに、信頼できる人へ財産管理や各種手続きを任せる契約です。銀行手続きや支払いを代わりに担ってもらえます。
③ 任意後見契約 — 将来、判断能力が低下したときに備え、誰に・何を任せるかを自分で決めておく契約です。元気なうちに結んでおけば、認知症が進んでも信頼する相手に財産管理を託せます。法定後見と違い、支援者を自分で選べるのが大きな利点です。
④ 家族信託 — 自宅や預貯金などの財産を、信頼できる家族に管理・活用してもらう仕組みです。認知症による口座や資産の凍結を防ぎ、将来の介護費用のために自宅を売却するといった柔軟な対応が可能になります。
なお、多くの銀行には「代理人届」や「代理人カード」といった、本人が元気なうちに代理人を届け出ておく制度もあります。あわせて利用しておくと、日常的な引き出しの備えになります。
ポイント:自分で備えておくメリット
繰り返しになりますが、これらの契約はいずれも判断能力があるうちにしか結べません。認知症が進んでからでは、選べる手段が大きく狭まってしまいます。
「認知症でも、銀行でお金を下ろせる仕組みができたらしい」——そんな断片的な情報を頼りに、備えを後回しにしてしまうのは危険です。2021年の全国銀行協会の指針は、あくまで本人のためにやむを得ない支出があるときの例外的な救済策であり、家族が自由に財産を動かせるものではありません。
特に、夫婦ともに高齢で支え合っているご家庭、子供が遠方に住んでいるご家庭、どちらかに認知症の兆候が見え始めているご家庭にとって、 見守り契約・ 財産管理委任契約・任意後見契約・家族信託といった備えは、決して「まだ早い」ものではありません。
備えができるのは、ご夫婦そろって元気な「今」だけです。買い間違いや帰りの遅れといった小さなサインに気づいたときこそ、動き始めるタイミングです。少しでも気がかりなことがあれば、どうかお早めにご相談ください。