相続・終活のよくある失敗パターンあるあるシリーズです。 これはフィクションですが、現実に十分起こりうるシチュエーションとオチです。ご自身や、身の回りのどなたかの状況と重ねながら読んでみてください。
【主人公の状況】
夫婦:妻は1年前に他界(父T80歳の一人暮らし、長男Kが同居)
子供:2人(同居の長男K53歳・別居の長女M55歳)
年齢:父T80歳
終活状況:「長女Mに多く遺す」と口では言っているが、遺言書は作っていない
Tさん(父80歳)は、1年前に長年連れ添った妻を亡くしました。妻の葬儀を終えてから、一人で暮らすには広すぎる実家に、長男のKさん(53歳)が戻ってきて同居を始めました。
正直なところ、Tさんと長男のKさんは、昔から折り合いがよくありませんでした。顔を合わせれば小言の応酬になり、食卓でも会話は弾みません。それでも「男手があれば何かと安心だろう」という現実的な事情から、同居は続いていました。
一方、別居している長女のMさん(55歳)とは、昔から気が合いました。車で1時間ほどの距離に住み、月に一度は顔を出してくれます。電話もこまめにくれて、Tさんの体調や食事を気づかってくれる。「やっぱり娘はありがたいな」。Tさんは折にふれてそう感じていました。
財産といえば、住んでいる実家(土地建物)と、いくらかの預貯金です。Tさんには、漠然とした思いがありました。「自分が死んだら、優しくしてくれたMに多めに遺してやりたい」。Kとは折り合いが悪く、家のこともMに任せたい——そんな気持ちです。
その思いを、Tさんは何度か口にしていました。長女のMさんが帰省したとき、「家のことや財産は、お前に多めに残すつもりだから」と。Mさんは「そんなこと言わないで、長生きしてよ」と笑って受け流していました。Tさん自身も、わざわざ書面にするほどのことではないと考えていたのです。「親が言ったことなんだから、子供たちも分かってくれるだろう」。
ところが、Tさんは具体的な準備を何ひとつしないまま、ある日体調を崩し、しばらくの闘病ののちに亡くなりました。最後の数か月、身の回りの世話をしたのは、同居していた長男のKさんでした。
四十九日も過ぎ、いよいよ財産分けの話し合いになったとき、事態は思わぬ方向へ転がります。
長女のMさんは言いました。「お父さんは生前、私に多めに遺すって、何度も言ってたわ」。ところが長男のKさんは、こう切り返したのです。「そんな話、書いたものは何もないだろう。それより、最後に親父の面倒を見たのは俺だ。介護した分は俺が多くもらう権利があるはずだ」。
Mさんは耳を疑いました。父の口約束を信じていた自分と、介護の貢献を主張する弟。話し合いは平行線をたどり、やがて感情的な対立へと発展していきます。「お父さんの気持ちを無視するの?」「気持ちって、証拠があるのか?」——。
頼みの綱だった父の言葉は、どこにも書き残されていませんでした。仲のよかったはずの姉弟は、遺産をめぐって全面的に対立し、もう口もきかない間柄になってしまったのです。Tさんが一番望まなかったであろう結末でした。
このケースに潜んでいた失敗の原因は、次のとおりです。
多くの方が誤解されていますが、生前にいくら口で「こう遺したい」と言っても、それだけでは法的な効力はありません。
亡くなった方(被相続人)が有効な遺言書を残していない場合、遺産は相続人どうしの話し合い(遺産分割協議)で分けることになります。そして話し合いがまとまらなければ、法定相続分という法律で定められた割合が基準になります。
メモ:今回のケースの法定相続分
つまり、Tさんがどれほど「Mに多く」と願っていても、書面がなければその思いは宙に浮いてしまうのです。
さらに今回、長男のKさんが持ち出したのが「寄与分」です。これは、被相続人の財産の維持や増加に特別の貢献をした相続人が、その分を多く受け取れるという制度です。介護をした、家業を手伝った、といった事情が該当しうるものです。
注意点:寄与分の難しさ
このように、遺言書がないと「父の口約束」と「介護の貢献」という、本来かみ合わない主張がぶつかり合い、収拾がつかなくなってしまいます。仲のよかった兄妹が決裂したのも、まさにこの構図によるものです。
なお、寄与分が認められるかどうかや、その金額の評価はケースによるところが大きく、判断が難しい分野です。具体的なご事情がある場合は、早めに専門家へご相談されることをおすすめします。
このケースを防ぐ最も確実な方法は、Tさんが元気なうちに遺言書、とりわけ公正証書遺言を作成しておくことでした。
公正証書遺言とは、公証役場で公証人が関与して作成する遺言書です。形式不備で無効になる心配が少なく、原本が公証役場に保管されるため、紛失や改ざんのおそれもありません。これがあれば、「長女に多めに遺す」という意思が法的な効力をもって実現できたはずです。
そして、このケースで特に効果的なのが、遺言書に添える「付言事項(ふげんじこう)」の活用です。
付言事項とは、遺言書の本文とは別に、家族へのメッセージや、その分け方にした理由を書き添える部分です。法的な拘束力はありませんが、「なぜこう分けたのか」という父の気持ちを伝えることで、相続人の感情的な納得を得やすくなります。
たとえば今回なら、こう書き添えることができたでしょう。「長女には日頃から世話になり感謝している。長男にも同居して支えてくれたことを感謝している。兄妹それぞれに事情があることを承知のうえで、このような分け方とした。どうか争うことなく、仲よく過ごしてほしい」——。こうした一言があれば、長男のKさんの気持ちも、いくらか和らいだかもしれません。
ポイント:遺言書+付言事項のメリット
あわせて検討したいのが、任意後見契約です。Tさんは闘病の末に亡くなりましたが、もし認知症などで判断能力が低下していたら、財産管理や介護の手配を誰が担うかでも、兄妹が対立した可能性があります。元気なうちに「判断能力が低下したら誰に何を任せるか」を決めておけば、介護をめぐる役割も明確になり、無用な争いを防ぐ助けになります。
なお、特定の相続人にどの程度配慮するかは、他の相続人の遺留分(いりゅうぶん/一定の相続人に保障された最低限の取り分)にも関わってきます。配分を大きく偏らせる場合は、後の争いを避けるためにも、専門家を交えて設計することをおすすめします。
「親が言ったんだから、子供は分かってくれる」——その思いが、かえって遺された家族を争わせてしまうことがあります。生前の口約束には法的な効力がなく、書面に残さなければ、本人の願いは届かないのです。
特に、相続人どうしの折り合いがよくないご家庭、特定の子に多めに遺したいとお考えの方、介護の負担が一部の家族に偏っているご家庭にとって、付言事項を添えた遺言書(公正証書遺言)の作成は、決して「まだ早い」ものではありません。
備えができるのは、ご本人がしっかりしている「今」だけです。「うちは大丈夫」と思っているご家庭ほど、一度立ち止まって考えてみてください。少しでも気がかりなことがあれば、どうかお早めにご相談ください。