相続・終活のよくある失敗パターンあるあるシリーズです。 これはフィクションですが、現実に十分起こりうるシチュエーションとオチです。ご自身や、身の回りのどなたかの状況と重ねながら読んでみてください。
【主人公の状況】
夫婦:あり(二人暮らし)
子供:1人(仕事と家庭で多忙、遠方在住)
年齢:夫H79歳・妻77歳
終活状況:妻はすでに判断能力が低下。夫自身の備えはこれから
Hさん夫婦(夫79歳・妻77歳)は、長年連れ添った仲のよい二人でした。子供は一人いますが、仕事と子育てに追われる毎日で、遠方に暮らしています。たまに電話で様子をうかがう程度で、日々の暮らしは夫婦二人で支え合ってきました。
家計のことは、結婚以来ずっと妻が握っていました。通帳も印鑑も妻が管理し、夫のHさんは「お金のことは妻に任せておけば安心」と、細かいことには関心を持たずに過ごしてきたのです。妻名義の口座には、二人でコツコツ貯めてきた定期預金もありました。Hさんにとっては「夫婦で築いた、夫婦のお金」という感覚でした。
ところが、その妻に少しずつ変化が現れます。同じ話を繰り返す、約束を忘れる、慣れた家事に手間取る——。やがて妻は認知症と診断され、症状は思いのほか早く進みました。
「元気なうちに、二人で何か備えておけばよかった」。Hさんはそう悔やみましたが、後の祭りでした。判断能力が低下してからでは、妻自身が契約を結ぶことはできません。任意後見(元気なうちに、判断能力が低下したときの支援者を自分で決めておく契約)を検討する間もなく、その機会は失われていたのです。
妻名義の預金が必要になり、Hさんは銀行へ向かいました。ところが、本人の意思確認ができないことを理由に、まとまった引き出しには応じてもらえません。困り果てたHさんは、専門家に相談し、結局法定後見(判断能力が低下した後に、家庭裁判所が支援者を選ぶ制度)を申し立てることになりました。
家庭裁判所が選んだ妻の後見人は、Hさんではなく、面識のない専門家でした。さらに、その後見人を監督する後見監督人も付くことになりました。「夫婦のことなのに、なぜ知らない人が」。Hさんは戸惑いましたが、制度上のことだと説明され、受け入れるしかありませんでした。
しばらくして、Hさんは「気晴らしになれば」と、妻を連れて温泉旅行に出かけることを思い立ちます。長年連れ添った妻への、ささやかな労いのつもりでした。費用は、夫婦の手元にあった生活費から支払いました。「夫婦のお金なんだから、当然だろう」。Hさんに、やましい気持ちは一切ありませんでした。
ところが、後日の後見監督の場で、この支出が問題視されます。後見人から、こう告げられたのです。「その生活費には、奥さまの年金やご本人の財産から出ているお金も含まれています。奥さまの分のお金は、奥さまご本人のためにしか使えません。ご本人の利益とは言いにくいこの支出については、相当額を返還していただく必要があります」。
Hさんは耳を疑いました。何十年も「夫婦のお金」として一緒に使ってきたのに——。妻のためを思った旅行が、まさか「使い込み」のように扱われるとは。長年あたりまえだった感覚が、後見が始まった途端に通用しなくなってしまったのです。
このケースに潜んでいた失敗の原因は、次のとおりです。
このケースの落とし穴は、大きく2つあります。
ひとつ目は、任意後見は「判断能力があるうちにしか」結べないという点です。
任意後見は、元気なうちに「将来、判断能力が低下したら、この人に支えてもらう」とあらかじめ決めておく契約です。ところが妻のように判断能力が低下してしまうと、もう契約は結べません。残された道は、家庭裁判所に申し立てる法定後見が中心になります。
メモ:任意後見と法定後見の違い
| 項目 | 任意後見 | 法定後見 |
|---|---|---|
| いつ準備する | 判断能力があるうち | 判断能力が低下した後 |
| 支援者を選ぶ | 自分で選べる | 家庭裁判所が選ぶ |
| 親族がなれるか | 自分で指定できる | 専門家が選ばれることも多い |
| 監督 | 任意後見監督人が付く | 状況により監督人が付く |
ふたつ目は、後見が始まると「本人の財産は本人のためにしか使えない」という、厳格なルールが適用される点です。
これが、今回いちばんの誤算でした。日常の感覚では「夫婦のお金」でも、法律上は名義人本人(妻)の財産です。後見制度は本人の財産を守るための仕組みなので、後見人は、本人の利益にならない支出を認めることができません。たとえ夫であっても、また善意であっても、です。
注意点
なお、何が「本人の利益」にあたるかは、状況によって判断が分かれることがあり、ケースによるところもあります。旅行費のような支出がすべて一律に否定されるとは限りませんが、認められないリスクは十分にあります。判断に迷う場合は、後見人や専門家に事前に相談されることをおすすめします。
このケースは、妻が元気なうちに備えておけば、防ぐことができました。判断能力に応じて、次のような備えが有効です。
① 任意後見契約を、元気なうちに結んでおく — 「将来、判断能力が低下したら、夫(または信頼できる人)に支えてもらう」と決めておけば、いざというときも自分で選んだ人に財産管理を任せられます。法定後見と違い、見知らぬ専門家が突然関わってくる事態を避けやすくなります。
② 家族信託で、財産を柔軟に管理・活用できるようにする — 家族信託を使えば、妻が元気なうちに、財産の管理を夫や子に託しておけます。信託の設計によっては、本人(妻)のためだけでなく、夫婦の生活全体を支えるための柔軟な使い方ができる場合もあります。後見制度ほど使途が厳格に縛られにくいのが特徴です。
③ 夫自身の備えも、今のうちに始める — このケースで見落とされがちなのが、夫Hさん自身の備えです。Hさんもすでに79歳。妻の介護をしながら、自分が認知症や病気になる可能性も十分にあります。夫もまた、元気な今のうちに任意後見や家族信託を検討しておくことが大切です。
ポイント:備えのメリット
繰り返しになりますが、任意後見も家族信託も、判断能力があるうちにしか始められません。「まだ大丈夫」と思っているときこそ、動き始めるタイミングです。どの制度がご家庭に合うかは事情によって大きく異なりますので、専門家を交えて検討することをおすすめします。
「夫婦のお金なんだから、自由に使えて当然」——長年あたりまえだったその感覚は、後見が始まった途端に通用しなくなることがあります。本人名義の財産は本人のためにしか使えず、たとえ配偶者でも、善意でも、例外ではないのです。
特に、家計を夫婦の一方が管理しているご家庭、配偶者に認知症の兆候が見え始めているご家庭、そして自分自身の備えがまだという方にとって、任意後見や家族信託の備えは、決して「まだ早い」ものではありません。
備えができるのは、ご夫婦がしっかりしている「今」だけです。「うちはまだ大丈夫」と思っているご家庭ほど、一度立ち止まって考えてみてください。少しでも気がかりなことがあれば、どうかお早めにご相談ください。