これは、終活・相続のよくある失敗パターンあるあるシリーズです。登場人物はフィクションですが、現実に起こりうるシチュエーションとオチを描いています。「うちは大丈夫」と思わず、ぜひご自身や身近な方の状況と重ねながら読んでみてください。
【主人公の状況】
夫婦:あり(二人暮らし・結婚45年)
子供:なし
年齢:夫Hさん(80歳)・妻Yさん(76歳)
終活状況:「自分が亡くなれば全部妻に残る」と思い込み、遺言書は未作成
春のよく晴れた日。Hさん(80歳)と妻のYさん(76歳)は、近所の桜並木をゆっくり散歩していました。子どもには恵まれませんでしたが、二人三脚で歩んできた45年。お互いを思いやる、穏やかな夫婦でした。
「俺が先に逝ったら、この家もお金も、ぜんぶお前のものだからな」
Hさんは、ことあるごとにそう言っていました。Yさんも「あなたったら、縁起でもない」と笑いながら、その言葉に安心しきっていました。自分たちには子どもがいないけれど、夫婦なのだから、残された方にすべて渡るのが当たり前。二人とも、そう信じて疑いませんでした。
Hさんには、離れて暮らす弟と妹がいました。盆暮れに年賀状をやり取りする程度の、ごく普通の関係です。仲が悪いわけではありませんが、特別親しいわけでもありません。Hさんは、自分の財産ときょうだいを結びつけて考えたことなど、一度もありませんでした。
「遺言書なんて、財産家が書くものだろう。うちは夫婦二人だけなんだから、要らないよ」
数年前、市の終活セミナーのチラシを見たYさんが「私たちも一度、考えてみない?」と声をかけたことがありました。けれどHさんは、そう言って取り合いませんでした。Yさんも、夫がそう言うのならと、それ以上は強く勧めませんでした。「夫婦なんだから大丈夫」――その思い込みが、二人の共通認識でした。
それから3年後の冬。Hさんは、自宅で倒れ、そのまま帰らぬ人となりました。あまりに突然の別れでした。
悲しみに暮れるYさんでしたが、葬儀も一段落したころ、相続の手続きを進めようとして、思いもよらない事実に直面します。自宅の名義変更のために相談した専門家から、こう告げられたのです。
「お子さんがいらっしゃらない場合、Hさんのご兄弟にも、相続する権利があります。この自宅と預貯金は、Yさんおひとりのものにはなりません。遺産の分け方を、ご兄弟と話し合っていただく必要があります」
Yさんは、言葉を失いました。45年連れ添った自宅が、自分ひとりのものではない――。頭が真っ白になりました。
やがて、Hさんの弟と妹に連絡を取ることになりました。二人とも、決して無理を言うような人柄ではありません。それでも、いざ相続の話になると、こう言いました。
「兄さんの遺したものなら、私たちにも権利があるんですよね。法律で決まっているなら、その分はいただきたい」
自宅は簡単に分けられません。結局、Yさんは手元の預金の一部をきょうだいに渡すことで、なんとか自宅だけは守りました。長年の蓄えは、大きく目減りしました。
「あの人は『全部お前に残る』って言っていたのに……」
Yさんは、誰を責めることもできず、ただ静かに肩を落としました。
今回の最大のつまずきは、「夫婦なのだから、配偶者にすべて相続される」という思い込みでした。
実は、亡くなった方(被相続人)に子どもがいない場合、相続のかたちは大きく変わります。配偶者は必ず相続人になりますが、それと一緒に相続人になる人が、状況によって変わるのです。
メモ:子どものいない夫婦で夫が亡くなったときの相続順位
→遺言書がないと、全員での遺産分割協議が必要になる
Hさんが亡くなったことで、Yさんと、Hさんの弟・妹の3人が相続人になりました。遺言書がないため、遺産を誰がどう引き継ぐかを、相続人全員で話し合う「遺産分割協議」が必要になります。この話し合いは、全員の合意がなければ成立しません。きょうだいが「権利分はほしい」と言えば、その意向を無視して手続きを進めることはできないのです。
自宅のように分けにくい財産が遺産の大半を占めると、Yさんのように、自宅を守るために預金を手放さざるを得ないという事態が起こりがちです。
注意点
なお、誰が相続人になるか、取り分がどうなるかは、ご家族の状況によって変わります。具体的なケースについては、専門家に確認するのが安心です。
Yさんのような事態は、Hさんが元気なうちに「ある備え」をしておけば、防ぐことができました。
① 公正証書遺言を作成する
最も効果的なのが、「全財産を妻Yに相続させる」と明記した遺言書を作っておくことです。とくにおすすめなのが、公正証書遺言(公証役場で公証人が作成する、法的に確実な遺言)です。
ここで大切なポイントがあります。きょうだいには「遺留分」がありません。
遺留分とは、一定の相続人に法律上保障された「最低限の取り分」のこと。配偶者や子どもにはありますが、きょうだいにはこの遺留分が認められていません。
つまり、子どものいない夫婦で「全財産を配偶者へ」という遺言を残しておけば、きょうだいは取り分を主張できなくなります。今回のケースは、遺言書一枚で結末がまるごと変わっていた、ということです。
② 死後事務委任契約を結んでおく
子どものいない夫婦では、残された配偶者が高齢になってから、各種手続きや葬儀・納骨などを一人で担う負担も心配です。
そこで、死後事務委任契約(亡くなった後の葬儀・納骨・行政手続き・公共料金の解約などを、信頼できる人や専門家に依頼しておく契約)を併せて準備しておくと安心です。とくに、夫婦のどちらか一方が亡くなった後、もう一方が亡くなったときの「最後の備え」として役立ちます。
「夫婦なんだから、残された方にすべて渡る」――この思い込みは、子どものいない夫婦にとって、もっとも危険な落とし穴です。
子も親もいない場合、夫のきょうだいが相続人になり、遺産分割協議が必要になります。長年連れ添った自宅や蓄えを守るために、残された配偶者が苦しい思いをすることも、決して珍しくありません。
けれど、「全財産を配偶者へ」と書いた一枚の遺言書があれば、その多くは防げます。きょうだいには遺留分がないからこそ、遺言書の効果がはっきりと出るのです。
子どものいないご夫婦にとって、遺言書の準備はまさに「マスト」の備えといえます。そして、死後事務委任契約を組み合わせれば、残された方の暮らしまで、しっかり守ることができます。
「うちは仲がいいから」「財産家ではないから」と後回しにせず、お元気な今だからこそ、一度ご夫婦で話し合ってみてください。具体的な進め方に迷ったときは、行政書士などの専門家に相談することで、ご家庭に合った備えが見つかります。